【大人の京都旅】誕生から100年 暮らしに寄り添う美「民藝」をめぐる旅 作家たちの愛した甘味も♡
民藝と暮らす素敵なお手本 憧れの「河井寬次郎記念館」でぼーっとしましょ
河井寬次郎/拓本「暮しが仕事 仕事が暮し」1947年 河井寬次郎記念館蔵
「民藝誕生100年」展で私のハートに突き刺さった、河井寬次郎さんの言葉「暮しが仕事 仕事が暮し」。

だからやっぱり、行かなくちゃ。そう思って訪れたのが、京都・五条坂の河井寬次郎記念館。このあたりは古くから清水焼の産地で、河井さんがもともとここにあった登り窯を譲り受けたことをきっかけに住まいと制作の場を移した、まさにその場所です。

住居と窯の間にある工房。陶芸には土を使うので、いわゆる“作業場”のような場所をイメージしますが、ここは“アトリエ”と表現したくなるしつらいです。
東京高等工業学校(現在の東京化学大学)窯業科、京都陶磁器試験所で陶芸を学んだ河井さんですが、窯業科では工業的な知識も多く勉強したそうです。記念館に残されている資料を見ると、非常に几帳面、かつ理系的な思考をする人だったことが伺えます。
膨大な知識とトライアンドエラーを重ねたうえで作陶し、最後は火という自然の力に表現を託して、あの独特の愛らしい陶芸作品が生み出されたのだと心に染み込むように思いました。

敷地の一番奥にあるレンガ造りの登り窯。8室に分かれていて、近隣の陶芸家たちとシェアして使っていたそうです。河井さんの窯は、手前から2番目。ここで河井さんの陶芸作品が生み出されたかと思うと、感慨深いです。
この一帯にはかつて20カ所以上こうした窯があったそうですが、現存する数少ない例となっています。ここが記念館となったのは、昭和43年(1968)に公害対策として京都市内での登り窯の使用が禁止され、河井さんの婿養子で陶芸家の河井博次さんが窯を滋賀・信楽(しがらき)に移したことがきっかけだったそう。

河井さんがこの地に移住した当初は一般的な日本家屋だったそうですが、昭和9年(1934)の室戸台風で被害を受けたこともあって、昭和12年に建て替えられたのが現在の建物。
記念館としてオープンするにあたり、台所を受付にするなど一部が改装されていますが、ほぼ河井さんたちが暮らしていた当時のまま残されています。
入口を入ると、かつて客人もてなす空間として使われていた広々とした空間が広がっています。

河井さんは島根県安来(やすぎ)の大工の家の生まれですが、この家を建てるにあたり、家業を継いでいたお兄さんたちが河井さんの要望に応えて家具や生活の道具を製作したそう。
この家には、民藝運動のメンバーが集い、サロンのように賑わったのだとか。柳さんから新築祝いとして贈られた壁掛け時計をはじめ、友人の美術家たちの作品もそこかしこに。

ダイニングの中心は吹き抜けになっていて、2階の各室はその吹き抜けを囲むように配置されています。

書斎には、河井さんが使っていた椅子と机がそのまま残っています。重厚感のある椅子はすべて木製ですが、脚にはキャスターが取り付けられています。明治、大正、昭和と日本の伝統的な暮らしに西洋の文化が溶け込んでいく、当時の暮らし方が伺えます。

本玄関の取次の間にある木彫りのうさぎ像。河井さんは陶芸を中心に、書や詩、随筆なども残していますが、晩年にはとくに木彫りに力を入れていたそうで、多くの作品が1点ずつしか残っていないといいます。
仕事と暮らしを空間的に、おそらく心理的にもシームレスに行き来していたからこそ、河井さんのなかから「暮しが仕事 仕事が暮し」という言葉が生まれたんだなぁ、と納得! 今後、座右の銘のひとつにしようと思います。
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