【高野山への旅/前編】 “パワースポット”なんて言葉じゃ軽すぎる! 導きの神おわす「丹生都比売神社」から始まる聖地巡りと話題の駅舎ホテルを体験!
こんにちは、奈良在住の編集者・ふなつあさこです。突然ですが「高野山」というとどんなイメージがあるでしょうか? “最強のパワースポット”とかでしょうか? ノンノン。そんな言い方じゃ物足りないです。圧の強い出だしで恐縮ですが、個人的には本当にそう思っています。
私は今までに5、6回ほど高野山を訪れているのですが、毎回ふと“高野山行きたいなぁ”と思うと高野山取材のお仕事が入るか、どなたかに誘われて伺っています。ちなみに2016年には『とっておきの高野山』(宝島社/販売終了)を企画・制作。再建された高野山・金剛峯寺の中門の端材を使ったブレスレット付きだったのですが、我ながらどうして実現できたのか……。こういう説明がつかないことを“ご縁”というのかもしれません。
今回もやはり友人母娘から「来週高野山行かへん?」と誘われ、手帳を見るとたまたま予定なし。ホテルの予約サイトを覗いてみると、行ってみたかったホテルが空いていて、せっかくならと取材のお願いもして……と、とんとん拍子で気づけば高野山にいたんです。“呼ばれているって、こういうこと?”なんて思いたくなってしまいました、知らんけど。
冗談はさておき、私にとって高野山は訪れるたびに心の中の要らないものをごっそり捨てて、キレイなものと入れ替えられるような、まさに聖地。個人的には“パワースポット”なんて言葉じゃ軽すぎる! と思っています。
そんな聖地旅の前編では、高野山を訪れる前にまず訪れるべき神社からご紹介します! ぜひご参考に♪
高野詣では「丹生都比売神社」へ行かなきゃ“片参り”
作家・白洲正子が代表作『かくれ里』で天上の「高天原」にもたとえた高野山のふもと、かつらぎ町に鎮まる丹生都比売(にうつひめ)神社。その起こりは古く1700年ほど前に遡るそう。そして古来、高野山を参拝する前にまずこちらを詣でるのがならわしです。どちらかしかお参りしないと“片参り”になってしまいますから、高野山旅のスタートはぜひ丹生都比売神社から!
平成十六年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山、熊野、吉野地域とともに丹生都比売神社も世界遺産に登録されています。のどかな田園地帯に、流麗な社殿が突如として現れるさまは、白洲正子が「桃源郷」ともたとえたのもうなずける光景。
写真提供:(公社)和歌山県観光連盟
一旦ここで、高野山について復習しておきましょう。訪れたことがない方は高野山=山だと思っておられるかもしれませんが、実は“高野山”という山はありません。和歌山県北部・伊都郡高野町の地域を指す名称で、外八葉(そとはちよう)・内八葉(うちはちよう)と呼ばれる1000m級の峰々に、ちょうど蓮の花のように囲まれた山上盆地を指す名称です。
そんな高野山を開いたのが、平安時代初期の高僧・弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)。真言宗の開祖であり、その修行道場となる地を探し求めて高野山にたどり着いたのです(空海さんのプロフィールは、簡単にまとめたつもりが長くなりすぎたので最後にご紹介します)。
丹生都比売神社の主神として第一殿にお祀りされているのは、古来魔除けとされ不老不死の象徴でもあった丹(赤)をまとう女神・丹生都比売大神。「お大師さん」として親しまれる空海に神領の高野山を授けた、高野山一帯の地主神でもあります。
第二殿には丹生都比売大神の御子神・高野御子大神がお祀りされています。狩人の姿で空海さんの前に現れて、白と黒の犬とともに高野山へと導いたとされています。権禰宜(ごんねぎ)の藤野さんが詳しく教えてくださいました。
高野山・金剛峯寺のお坊さんたちは、今でも四度加行(しどけぎょう)という修行の前後にも神社にお参りに訪れるそう。
神仏分離令(神さまと仏さまを分けて信仰するようにという法律)が出された明治時代以前、日本では神仏をとけ合うように大切に信仰してきましたが、『今昔物語』などに記された高野山開山の物語は、神と仏が共にある、日本の祈りのすがたの源泉といえるでしょう。
写真提供:丹生都比売神社
現代の「みちびきのご神犬」として奉納された紀州犬(天然記念物)の親子、白犬のすずひめ号と、黒犬の大輝号。10月をのぞく毎月16日の午前10時から11時30分/午後1時から2時30分に公開されています(※ご神犬の体調によっては中止となる場合もあるとのこと)。
ご神犬をあしらったお守りも。
こちらのちょっとオーパーツみたいな石碑、最近ちょっとした人気を博しているそう。お坊さん(=夫)に聞いてみたら、「たぶん光明真言曼荼羅(こうみょうしんごんまんだら)」とのことでした。
参拝を終えて、門前の「カフェ客殿」でランチ。かつらぎ町のブランド米「天野米」のごはんをたっぷりのおかずとともに味わえます。ごはんを白ごはん、塩おむすび、茶粥、卵かけごはんから選べるのも嬉しい!
営業日が不規則なので、Instagramで最新情報をチェックしてからお訪ねを。予約がおすすめです。
お大師さんのお母さんのお寺「慈尊院」は女性の味方!
今でこそ女性も高野山を訪れることができますが、明治時代に入るまでは修行者を律するために女人の立ち入りは禁じられていました。その代わり、高野山の近くまで女性がお参りできるお寺がいくつかあり「女人高野」と呼ばれていました。
高野山のふもとにある慈尊院(じそんいん)も女人高野のひとつ。我が子が開いた高野山をひと目見ようと、現在の香川県善通寺から訪ねてきたお大師さんのお母さん「玉依御前(たまよりごぜん)」がおられたお寺です。
このあたりを「九度山(くどやま)」というのですが、お大師さまは月に9度、高野山上から20数kmもの山道を下ってお母さんに会いに行かれていたことが由来。こうしたことから、子宝、安産、育児、授乳などを願い、乳房型絵馬が奉納されるようになったのだとか。
最近では、乳がん平癒を祈る方も増えているそうです。
こんな「女性のための御守」も。
重要文化財にも指定されている慈尊院・弥勒堂(みろくどう)も世界遺産の一部。こちらにお祀りされているご本尊、国宝・木造弥勒仏坐像は21年に一度のみご開帳されるとのこと。ちなみに前回は本来の周期にあたる2014年ではなく、2015年の高野山開創1200年記念と合わせてご開帳したそうです。
レトロな駅舎に泊まる非日常「NIPPONIA HOTEL 高野山 参詣鉄道」
今回の旅をさかのぼること1週間前。東京出張の際に、仲良くしていただいている和歌山県観光連盟のお姉さんを訪ねていた私。最近の和歌山情報をあれこれ伺っていたところ「こんな面白いホテルができたんやて」と教えていただいたのが、南海電鉄の高野下の駅舎をそのままリノベーションしたというホテル。
その後まさか高野山に誘われるなんて思ってもなかったのですが、予約サイトを覗いてみたら……空いてる! 即予約! ホテルは完全に無人で運営されるシステムなので、事前にオンラインでチェックインする必要があります。
高野山を電車で訪れるには、なんば駅から南海電鉄の特急「こうや」で極楽橋駅まで行き、南海高野山ケーブルカーに乗り換えるのが便利ですが、こちらに泊まるなら橋本駅で乗り換えが必要。改札から部屋までは徒歩10歩から20歩。
知らなければ気づかなさそうなドアがホテルの入り口。さりげなく、鉄道のヘッドマークのようなプレートに部屋名が。
私たちが泊まったのは、駅係員の宿直室を改装したというダブルベッド2台の4人部屋「高野」。当時のままの柱や扉など新旧を織り込んだ空間に、鉄道の座席や網棚、電話、銘板などが設置されていて大興奮。
南海電鉄の駅長さんの制服も置いてあって、もう全員ワーワー大騒ぎしながら撮影タイム。ドアも開けっぱなしなのに気づきませんでした!
もうひとつのお部屋「天空」も見学させていただきました。乗務員の待機スペースを改装したダブルベッド1台の2人部屋で、窓からは駅にすべり込んでくる電車の往来がよく見えます。
ちなみにタオルやアメニティ類(耳栓も!)は一式揃っていますが、パジャマはありません。
部屋にはおむすびが用意されていた(予約プランによります)ので、朝ごはんにいただきました。ちょっとしたおかず付き。
なお、夕飯は付いていない+近隣にコンビニなどのお店はないので、ご注意を。
隣駅の九度山にも、駅舎を利用したお店があるというので立ち寄ってみました。なんとも可愛らし、おむすびスタンド「くど」。
お店の方が「おむすびのお米は毎日、奥の“おくどさん”(=かまど)で炊いているんです」と教えてくださったので覗いてみると、本格的なおくどさんが。
駅舎のなかのかまどでお米を炊いて、おむすびを売っている駅は日本でここだけなんじゃないでしょうか。
お米がなくなり次第、営業終了。訪れたタイミングで残っていたおむすびは2つだけ! 危ないところでした。
時間切れで回りきれませんでしたが、九度山は戦国武将の中でも圧倒的な人気を誇る真田幸村(さなだゆきむら)が関ヶ原の合戦後、雌伏のときを過ごした地。戦国時代好きの歴女の皆さまはぜひ、ゆかりの地を巡ってください。
ちなみに、有楽町・交通会館の和歌山県の首都圏アンテナショップ「わかやま紀州館」には和歌山の特産品が取り揃えられているほか(私はいつもここでお気に入りの梅干しを買っています)、併設されている「和歌山県東京観光センター」は、各エリアのパンフレットも充実。旅の相談にものってもらえます。
空海さんのざっくりプロフィール
弘法大師空海/『とっておきの高野山 総本山 金剛峯寺 高野霊木ブレスレット BOOK』挿絵(イラスト:竹永絵里)
そういえば今回の旅と同じメンバーで訪ねた、お大師さんのご生誕の地、香川県の総本山善通寺(ぜんつうじ)
宝亀5(774)年、讃岐国(さぬきのくに)多度郡(たどのごおり)屛風ヶ浦(びょうぶがうら)、現在の香川県善通寺市生まれ。幼少の頃からの神童ぶりで、15歳で上京(もちろん東京ではないですよ、京都です)し、当時ほんのひと握りしか入れなかった大学に18歳で入学するも、19歳のときに一念発起して退学。求道(ぐどう。正しい仏の教えを求めること)の旅に出られます。
中華人民共和国陝西省の古都・西安市南郊、近代に復興された青龍寺(画像:Wikipedia)
スーパーエリートしか選ばれない遣唐使として、31歳で今の中国に渡り、当時最高峰の高僧・青龍寺の恵果和尚(けいかおしょう)に弟子入り。先輩たちをごぼう抜きして半年にして正当な後継者として密教の奥義を授かります。そのかたわら文化芸術、土木、薬学、教育など仏教以外の知識もバリバリ吸収。それを成し得たのも、中国語、サンスクリット語も堪能だったからのようです。つまりトリリンガル。天才。
現在の満濃池。写真提供:(公社)香川県観光協会
一日も早く日本に密教を伝えるべく、本来遣唐使の留学期間は20年のところ、2年で切り上げて帰国。43歳で真言宗を開き、高野山を修行道場として開創。
嵯峨天皇から賜った京都・東寺も真言密教の道場としたり、日本初の庶民のための私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」や日本最大級のため池・満濃池(まんのういけ)を作ったり、日本三筆(字が上手い人トップ3)に数えられる能書家だったりと「え? ひとりの人生?」と思うほどの功績の数々を残しています。伝説、キリがない。スーパースター。
高野山・奥之院、生身供の様子。写真提供:(公社)和歌山県観光連盟
高野山では、空海さんは入定後も奥之院の御廟(ごびょう)で禅定(ぜんじょう。心静かに瞑想すること)しておられ、毎日6時と10時30分の2回、食事を届け続ける「生身供(しょうじんぐ)」という儀式が約1200年間続けられています。
ちなみに「空海」の名は、19歳の時、洞窟で修行中に悟りを開き、そのときに見た空と海に感銘を受けてご自身で名乗ったと伝えられています。ちなみに下記は全部、空海さんのことです。
・佐伯真魚(さえきのまお)
お坊さんになる前の俗名
・遍照金剛(へんじょうこんごう)
恵果和尚から与えられた名前(灌頂名・かんじょうめい)
・弘法大師(こうぼうだいし)
入定後、醍醐天皇から与えられた名前(諡号・しごう)
高野山界隈の皆さんは“お大師(だいし)さん”と呼び、京都の皆さんは“弘法さん”と呼んではるイメージ。いずれにせよ、親しみ深い存在なのだなぁと思います。2023年は生誕1250年後のアニバーサリーイヤーが盛大に祝われました。
以上、わかりやすくお伝えしようとかなりくだけた表現をしてみましたが、私は空海さんを心から尊敬しています!!!
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