サッカーの街として有名な「ニューカッスル」の知られざる歴史&文化を紐解く【たかまるゆうかの英国スケッチ ー海外生活で気づいたことー】
都市の成り立ち
ー古代・中世ー
ニューカッスルの起源は、西暦122年にさかのぼります。当時のローマ人によって「ハドリアヌスの橋」が建設され、その後300年ほどかけて集落が形成、1080年にはロベール2世(ノルマンディー公)がローマ帝国時代の砦の跡地にモット・アンド・ベイリー城を建設。この城が街の名称の由来となっています。
中世を通し、ニューカッスルは北部の要塞として機能。現在残る石造りのニューカッスル城は、ヘンリー1世が1172年から1177年にかけて、スコットランドの脅威から街を守るために建設したものであるといわれています。日本の平安時代と同じ頃に築かれたこの城が、現代まで街に溶け込むように残っているなんて……なんとも驚きです。
1200年ごろからは輸出港の役割も果たしており、羊毛、木材、石炭などを主に輸出しました。特に石炭は後の時代まで街を支える重要な産業資源となっています。
ニューカッスルの黄金時代
ー近世・現代ー
1642年には、国王チャールズ1世と議会が対立し内戦が勃発。ニューカッスル軍は国王派として戦いましたが、1644年には議会派が街を包囲し降伏を余儀なくされ、その2年後にチャールズ1世はニューカッスルで拘束されます。ロンドンに送還されるまでの半年間、王は市街の邸宅で公開囚人となり、ゴルフや教会の礼拝、パブでビールを楽しんでいたという逸話も残っているのだとか。
産業革命が起きた18世紀後半になると、石炭を用いた製鉄技術が開発され、より一層石炭の需要が高まりました。交通の妨げとなっていた城壁と門が一部取り壊されると、1801年に2万8,000人だった人口は1831年には5万3,000人に。ニューカッスルでは今まで盛んだった炭鉱業、造船業に加え鉄鋼業が加わり重工業の黄金時代を迎えます。
そんななか、1825〜1840年代にかけて建築家のジョン・ドブリン、建築業者のリチャード・グレンジャー、ニューカッスル市書記官のジョン・クレイトンを筆頭に、ニューカッスルの中心部が再建されます。街のランドマークであるグレイ・モニュメントやグレンジャーマーケット、セント・メリーズ大聖堂など、現在も残る街の名所を建設。1849年にはニューカッスルとロンドンを結ぶ鉄道橋のハイ・レベル橋が建設され、翌年にはニューカッスル中央駅が開業しました。
20世紀に入ると街にかかる橋の数も増え、1928年には街のシンボルであるタイン橋が開通。現在に通じる街の景観がほぼ形作られた時期です。
20世紀中期には重工業の衰退が進み、街は転換期を迎えます。その後、教育機関の設立やキーサイド地区の再開発によって、教育分野や芸術など文化的な面が際立つように。歴史を感じる街の風情はそのままに、観光都市として変遷を遂げています。
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