包丁は月に一度は研ぐべし⁉ 「大阪・堺」の食文化と包丁を学ぶ【上方食文化研究會・Wあさこの大人の社会見学 vol.2】
左から、日本料理家・吉田麻子先生、さかい利晶の杜学芸員・矢内一磨先生(さかい利晶の杜・観光案内展示室)
お料理教室を通じて上方の家庭の味を伝える日本料理家・吉田麻子先生と、奈良在住の編集者・ふなつあさこの“Wあさこ”がお届けする、上方(関西)の食にまつわる大人の社会科見学。前回に引き続き、大阪・堺の食文化を学んできました。
その土地の文化を知るにはまず、その土地のミュージアム! と、調べていたところ「さかい利晶の杜」でまさに企画展「近世堺の豪商 米屋甚兵衛の家業と文化」(〜2025年1月13日・月)が開催されているという情報をキャッチ。これは行かねば! と見学へ。
そして「堺の庖丁ってめっちゃ歴史あるみたいやねん」とお料理道具にこだわる麻子先生に教えていただき、庖丁屋さんも訪れました。“歴史あるみたいやねん”の“歴史”ってそんなに前!?ってぐらい、前でした。ぜひ、びっくりしてください!
サステナビリティあふれる堺町衆のポリシー“始末の心”
中世の物流の要としてモノと人が集まる街だった堺を牛耳っていたのは、時の権力者……ではなく、堺の町衆(町の人たち)。国内外との交易を通して、ものすごい富が集まっていたからです。織田信長、豊臣秀吉も、堺を天下統一の拠点にしようとしたほど、たいへんに栄えていたのです。
そんな堺でしたが、大坂夏の陣の前に豊臣方の焼き討ちに遭ってしまい、江戸時代に入ってから復興を目指します。「それでも、中世のような交易による繁栄を取り戻すことはできなかったんです」と教えてくれたのは、「さかい利晶の杜」の学芸員、矢内一磨先生。その一因となったのは、このエリアの中心地が大坂(現在の大阪府大阪市あたり)に移ったこと。
──江戸時代の文学者・井原西鶴は、『日本永代蔵』などに当時の人々の暮らしを生き生きと書き残していますが、そのなかで“大坂から三里離れた堺は格別の世界(大坂と堺は全く気質が違う)”と述べています。
一番の違いが“始末の心”ですね。食でいうと、お祝いごとなどのいわゆる“ハレの日”には豪華な食事を食べ、“ケの日(ふだんの日)”には質素な食を心がけるんです。そうしたつつましく堅実で無駄を嫌う気質は、ライフスタイルにも商売のスタイルにもあらわれています。「始末をつける」といいますが、堺の町衆は物事を最後まできちんと収めることを美徳としていたんです。
堺にはいわゆる成金はおらず、公儀御用(当時は幕府ですが、今でいう公的機関御用達)の豪商や代々のお金持ちがほとんどでした。たくわえた富は金融や土地で運用して、住宅や道具なども代々大切に使い続け、派手な服装もせず、手堅く商売をしていたようです。西鶴は「堺は始末で立つ」とも評しています。地に足のついた、成熟した都市社会だったのでしょう──。
堺というと、はなやかで派手なイメージがありましたが、矢内先生のお話をうかがうにつれ、それは中世に限ったことで、江戸時代には今に通じるサステナブルな暮らしを営んでいたことがわかりました。
左上から時計回りに《引札(清酒八千世)》、《伝具足屋宗專肖像》、《蘭亭序屏風》、《米屋甚兵衛家屋敷図》(以上全て堺市博物館蔵)
江戸時代の堺は醤油・酢・酒などの醸造業がさかんで、大道筋(だいどうすじ)の西側にはずらりと南北に酒蔵が並んでいたそうです。上神谷(現在の堺市南区)産をはじめとするよいお米や、地下から汲み上げた良質な水から造られる堺のお酒は、まったりと甘口だったのだとか。
そうした酒造業の多くが、第二次世界大戦を経て廃業してしまいます。米屋甚兵衛家は建物疎開(※)により取り壊されましたが、代々伝えられてきた文献は無事今に残ったのです。
米屋甚兵衛家で大切に受け継がれてきた商売に関する資料を見ていると、堺商人らしい実直なビジネススタイルをうかがい知ることができます。一方で、米屋甚兵衛をはじめとする堺の豪商たちがバックアップしていた江戸時代の書家・趙陶斎の作品を所有しているところを見ると、お金を出すべきところには出していたこともわかります。お金の使いどころがわかっている、それが真のお金持ちなのでしょう。
実は、「さかい利晶の杜」が建つ場所こそ、この米屋甚兵衛家の酒蔵だった場所! 今回の展示は、なんと80年ぶりに米屋甚兵衛家の文献が里帰りしたことによるものなんです。さぞや米屋甚兵衛家の人たちも喜んでいることでしょう……!
※建物疎開:空襲によって火災が広がらないよう、あらかじめ建物を壊しておくこと
ミュージアムショップでは、堺に関する食品や工芸品などがラインナップされていました。
「金の鳩」は、米屋甚兵衛と同じくかつて堺にあり、廃業してしまった益田酒造で造られていた日本酒。百舌鳥(もず)八幡宮にも献上されていた銘酒だったようです。時を経て、そのご子孫が同じ名で復刻したのだそう。かつてと同じく上神谷のお米を使い、古くから関わりの深かった奈良県橿原市の今井町の蔵元で製造されています。
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