【神野三鈴さん】連載
「ラブレターをあなたと」
前回、ここで触れた初の朗読会は無事に終えることができました。
鎌倉は佐助のギャラリー『アピスとドライブ』のお昼と夜で窓から見える竹林の表情が変わっていくのも美しくて。でも何より私にとって贅沢だったのは、井上ひさし作『新釈遠野物語』に耳を傾け、幼子のように目を輝かせるみなさんの姿でした。
新しく発見した朗読会の魅力、井上先生とのかけがえのない光景のお話をお届けします。
『ひょっこりひょうたん島』など数々の小説、戯曲を書き残した井上ひさし先生。まだひよっこの役者だった私を新作に抜擢して、遺作となる『組曲虐殺』まで四作品に当てがきしてくださった。
井上戯曲で育てて頂いたからこそ今の私があると思っている。
初朗読会は『新釈遠野物語』から河童が出てくる「川上の家」、そして戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』という、私が初めて触れた井上作品にしようと選んだ。
練習で小説を声に出して読んでみて驚いた。
戯曲と違って、情景が一目で広がる活字が飛び込んでくるが「煙霧が滑り降り」と音で聞くとわかりにくいのだ。
先生の戯曲は耳でわからない言葉は一切出てこないから、あらためて物語の天才の言葉選びに唸った。小説は目で読むものなのだと。
読むのが不自由な方にも朗読会を楽しんで頂くにはどうしようか。ふと、20年近く前、舞台『太鼓たたいて笛ふいて』の公演を終え鎌倉に帰る先生と電車に乗っていたときのことが蘇った。
混み始めた夕暮れの電車のドア付近に立っていると、片耳に鉛筆を引っ掛けたおじさんが「あんた! 井上ひさしだろ!」とびっくりするような大声で近づいてきた。
私がお守りしなくてはと焦っていると、先生は今まで私と話していたのと全く同じ調子で「はい、そうです。何でしょうか?」と相手を始められた。
あまりにも自然に向き合われたからか、おじさんは勢いを失いながらも「お、おうう、あんた最近、なんで小説書かないで芝居ばっかり書いてんだよう」と文句をいった。
「それはですね」と先生はまるで対談番組の相手に応えるみたいに話し始めた。
「小説は私が部屋で一人で机に向かって自分のなかから孤独に生み出すんですね。それを貴方がやはり一人で孤独に読む。いわば私から貴方への一対一のやり取り、ラブレターみたいなものなのです。芝居は役者さんのことを思いながら書いて、演出家、照明家など沢山のスタッフの力が加わって、自分が書いたものから変化していくんですね。そして劇場という空間がまた特別な場所で、その日のお客様という、見ず知らずの人たちが集まって、目の前で生きた人間が繰り広げる物語に泣いたり、笑ったりしながらまたそれぞれの場所に帰っていく。受け取った種を自分の生活の場に持ち帰る、という特別な共同体なんです」と。
さらに「神野さん! この方に芝居のチラシをお渡しして!」といわれ、私はカバンをひっくり返して芝居のチラシを出すと「いい芝居です! 一度劇場に来てごらんなさい!」と彼に渡した。
納得してるのかしてないのかわからない表情の耳鉛筆おじさんと私は明大前駅で降りた。
乗り換えで別れる私にポツリと「俺はよう、ただ、井上ひさしの小説が大好きなんだよう。もっと読みてえんだよ」と呟いて人混みに消えた。
孤独な一対一のラブレター。そんな私的なものを声に出して共有していいのかしらと不安にもなったが、私の体を通して語られる物語を、偶然集まった人たちと体験するのは小説と劇場のいいとこ取りじゃない? と考えたら、すっと不安が消えていった。
それぞれの孤独のなかで誰かの気配を感じながら物語の世界に身を委ねる。ゆりかごに揺られるように。豊かな物語と想像力が、そこに劇場を創り出すのだ。
私は役者の特権? をフルに使って伝えようと決めた。少し背徳感があるのは、やはりラブレターだからかな。笑い声やため息がバラバラの私たちをひとつにしていく。
今、生まれる間の共有、共犯関係。物語に一喜一憂するみなさんの表情が愛おしく、美しかった。
会が終わると、それぞれの生活の場に帰っていく。もう会うこともないかもしれないが、夏の日に、一緒にあの河童の少年に会った経験は消えないのだ。
そして、いつか客席に耳鉛筆のおじさんが座っているといいな。
MISUZU KANNO
神奈川県鎌倉市出身。第47回紀伊國屋演劇賞 個人賞、第27回読売演劇大賞 最優秀女優賞を受賞。代表作は舞台『メアリー・ステュアート』『組曲虐殺』、映画『37セカンズ』など。ドラマ『À Table!~ノスタルジックな休日~』(BS松竹東急)、『ブラックペアンシーズン2』(TBS)が放映、映画『大いなる不在』が公開中
文/神野三鈴
大人のおしゃれ手帖2024年10月号より抜粋
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