神野三鈴さんエッセイ
「にんげんのもりに暮らす」
鎌倉はお屋敷だった場所がマンションになり、何世帯もの家族が引っ越してきて、一挙に賑やかになる地域も増えました。
子どものため、仕事のため、それぞれ新天地への夢を抱いた初々しい新参者さんの姿に「ようこそ!」と心の中で呟いて、ああ、私は今、この地に根を下ろして暮らしているのだなあと。
今回はその地で暮らすということに思いを馳せたお話におつきあいください。
テレビから、人が一生のうち引っ越しする回数は平均4回、だから家選びは大切にと不動産会社のCMが流れてきた。
たったの4回? 我が人生の浮き沈みの激しさと比べ衝撃を受けた。そして一つの場所に長く暮らしている人の「根っこ」はきっと私よりもずっと深く太いに違いないと羨ましく思った。引っ越しの数を数え出したが30軒目でやめた。
一軒一軒思い出すたびに喉から胸にかけて、つん、ずんと切ない感情が石のように降りてくる。明らかに夜逃げのような引っ越しもあった。
母が「お家が狭いと、みんながいつも近くにいられるから嬉しいわ!」と喜んでみせていたので、貧しさや豊かさで幸福が左右されることはなかったが。
お嬢様育ちだった母は不屈の精神の持ち主でもあった。
ここが新天地! 今度こそ根を下ろして暮らそう! と積極的にその土地を開拓していった。
だから子どもたちもそのつもりで、全身全霊で新しい環境に飛び込んだ。
でも、やっと馴染んで友だちもでき、これからこの土地で成長していくという頃になると必ず、父の事業に大問題が起きて「引っ越し」した。
最初からまた引っ越すことがわかっていたなら、影のある転校生として、まわりを俯瞰して見ることのできるクールな私になっていたのに。
毎回、馬鹿みたいに全力で関わっていくので、別れのたびに辛くてボロボロになった。
小学校から中学を過ごした沖縄。真っ白なヤマトンチュから真っ黒になってウチナンチュ言葉も喋るほど馴染み、優しい沖縄の友人たちと過ごした後の東京復帰は難しかった。
世界が総天然色から灰色に変わった。
母譲りの不屈の精神も限界を迎え、親の世話になっていてはダメだと決心し、家を出てアルバイトをしながら暮らし、前回の猫とのジプシー生活へ続く。
大人になり、結婚しても落ち着くことはなく海外に引っ越しもしたが、巡り巡って、生を受けた地に根を下ろし、14年が経った。
年月と共に下ろした根が張り、深く広がっていくように感じている。
養分を自分のなかに吸い上げているように土地の風土と自分が交わっていき、その「土地の人間」になっていくような。
そして今まではその場所から貰うもの、享受するものに意識が向いていたのが、今度はこの土地に何ができるか、新しく来た、産まれた子たちにどんな形で渡していけるかと考えるようになった。
そんなことは先人や若い人が故郷のためにとっくに始めていることだろうけれど。
根を張り養分をいただき、願わくば誰かを喜ばせる花を咲かせたい。そして私が朽
ちたら何かの養分になれたらと。
我が家は小さな里山の中にある。小さくとも多様な小動物の棲家だ。私一人ではこの自然を守ることはできないが、この地域では整地をしないと何も建てられないから安い山の斜面の土地をそれぞれの家が所有している。手付かずのまま。自分の家につながる里山を少しずつ守った結果、山が残ったのだ。
夫も私も何も知らず、家のまわりだけでも自然が残るようにと思い、斜面の土地を手に入れた。近所の方たちもそれぞれそうしたらしい。
世界で一番小さなナショナルトラストかもしれないねと後からご近所さんたちと笑った。
ご近所の家々が並んでる様子は人間たちの森のようにも見える。この森を私はとても気に入っている。 そうか、私という木の年輪は30以上の土地から貰った養分でできているんだ。
辛かった思い出よりもその土地がくれたものをひとつひとつ思い出してみようかな。
仕事のため、なかなか地元でゆっくり過ごす時間がなくとも、慌ただしい晩御飯の買い物途中に15分しかない! ではなく、15 分ゆっくりしたなぁと感じさせてくれる大切な場所。
「鎌倉倶楽部 茶寮小町」で至福の一服。
齊藤亜紀さんはお茶や食材の生産者さん、茶器を作る作家さんと大切にご縁を育んでいらして、新しい世界を教えてくださいます。
一杯のお茶から広がる人の物語、日本の豊かさに感動しきり。丁寧な暮らしへの思いが新たに。
MISUZU KANNO
神奈川県鎌倉市出身。第47回紀伊國屋演劇賞個人賞、第27回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞。代表作は舞台『メアリー・ステュアート』『組曲虐殺』、映画『37セカンズ』『ファーストキス1ST KISS』、ドラマ『アンチヒーロー』『ブラックペアン2』など。ドラマ『魔物』(テレビ朝日)が放映中。
文/神野三鈴 撮影/枦木功[nomadica] スタイリング/田口慧 ヘアメイク/奈良井由美
大人のおしゃれ手帖2025年6月号より抜粋
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